音色が響き合うさまを絵画に表現する"交響絵画"の名匠・・・

異なる本質を持った様々な素材をコラージュという技法によってキャンバスの上に重ね、そこにまったく新たな生命の調和を吹き込んでいくニッサン・インゲル。
しばしば使用される楽譜の切片に象徴されるように、美しい音楽を聞くことによって創作へのイマジネーションを高めていくアーティスト、ニッサン・インゲルに迫ります。

さまざまな素材達が運命的に出会い調和の取れた旋律を奏ではじめる

ニッサン・インゲルが得意とする"コラージュ"とは、イメージの上にイメージを重ねていく表現手法のこと。透かし絵、ポストカード、アンティークの楽譜や絵画、クレヨン、パステル、さらには塩やガラス、プラスティック片など、あらゆるものをキャンバスの上に載せていき、本質的に異なる素材同士の相互関係やハーモニーによって作品を完成させていくところにインゲルの作品の特徴があります。

"交響絵画"とも称されるインゲルの作品。それは、様々な音色が互いに響き合う様子を1枚の絵に表現したもので、抽象的なモチーフを組み合わせることによって高度な完成を見せる芸術です。いま挙げた以外にも、新聞や雑誌の切れ端、小説の一編、ちぎれた壁紙やレースなど、様々な素材を用い、それらをしわくちゃにしたり、底に刻み込まれた文字や模様の一部だけを切り取ったりして魅力的に作品に生かしています。

こうした素材の一つひとつは、お互いに全く異質なものですが、コラージュという技法を通じて、それぞれの本来の姿や形から離れて融合しあい、絶妙な調和のもとに素晴らしい交響楽のような旋律を奏ではじめるのです。それは素材たちの運命的な出会いと言っても決して過言ではありません。かつては具体的な意味を持っていた一つひとつの素材は、おぼろげな記憶や意識の断片でもあります。インゲルはこうしたものを拾い集め、あたかもパズルのように組み合わせて見せることで、より普遍的かつ豊かな感覚を表現することに成功しています。

さらにインゲルは、こうして出来上がったコラージュに、油絵やアクリル絵の具、ときには作品に透明感を与えるために金属料などを用いて最後の仕上げをほどこし、ようやくひとつの作品を完成させていくのです。

インゲルのコラージュ作品には、アンバランスの中に存在するバランスが感じられるといわれます。音楽にたとえるなら、ちょうど音楽家がリズムとハーモニーの兼ね合いを模索しているような感覚とでもいえばよいでしょうか。あるいは一つひとつの作品に交響楽の要素がある問いいってもよいでしょう。すなわち音楽家たちが各自パートを完璧に演奏し、かつクレーやカンディンスキー(いずれも20世紀を代表する抽象画家)からのインスピレーションを受けている―。この多層的でありながら調和のとれた作風こそが、インゲルの最大の魅力なのです。

あらゆる時代と場所で体験したアートとの遭遇が作品のベース

ニッサン・インゲル1931年、イスラエルに生まれました。名門ベザレル美術学校を卒業後フランスのストラスプールにある国立東部演劇センターで舞台美術や衣装を学び、1950年代前半にパリに移住。絵画の創作と並行して、舞台美術や衣装の制作も手がけていました。ここで数々の個展を成功させた後1965年にニューヨークに移住し、ここでピカソやカンディンスキー、またニューヨークの抽象画家たちから影響を受けました。

ニューヨークでの経験についてインゲルは、「この街のモダンさ、この時代の興奮、そして創造性には大きな影響を受けました。ポップアートからコンセプチュアルアートまで、さまざまな表現と出会ったことは、ニューヨークに対する私の考え方を大きく変えてくれました」と語っています。一方で聖書やユダヤ教のシンボルにも関心を持つインゲルは、この時期ニューヨークやニュージャージー州、メリーランド州にあるユダヤ教会のステンドグラス制作の仕事も引き受けています。

彼がまったく新たな表現方法への模索を開始したのは、1975年に再びパリに戻ってからのことでした。パリの蚤の市で見つけたアンティークの楽譜からインスピレーションを受けたインゲルは、音楽表記のコラージュという手法を自らのものとするに至ります。子供のころからフルートを習っていた彼にとって、音楽はきわめて存在であり、絵画制作においてもまさに伴奏的な役割を果たすものということができます。

現在、インゲルはフランス・ノルマンディー地方にある古い邸宅をアトリエとして購入し、やはりアーティストとして活躍する娘のアレキサンドラ・インゲルとともに、日々創作活動に打ち込んでいます。ここは、かつて巨匠モネがアトリエを構えた地でもありますが、インゲルがここをアトリエにすると決めた理由はそれだけではありませんでした。この邸宅を引き渡された際、前のオーナーが残して行って荷物の中に、偶然にも25年前の自分の作品を紹介した記事があったのです。このことにインゲルは運命的なものを感じ、豊かな自然に囲まれたこの場所を操作君お拠点とすることに決めたのでした。

私の作品を見る人が、それぞれ思うように感じ取ってくれれば…

さまざまな時代やさまざまな場所において、あらゆるアートに接してしたインゲルは、自分を何にでも興味を持つ人間だと評しています。コラージュという表現方法をとることについても、「消費社会から屑のようなものから、言葉、音楽、詩、ゲーム、文学等、我々を取り巻いている世界(つまり人類が人類である証)をキャンバスの上で表現しようとしているのです」と語っています。

コラージュの中でもミックスメディアと呼ばれるテクニックによって、インゲルは日常生活で見つけたあらゆる素材をキャンバスに載せ、作品ごとに異なる物語を語らせていきます。アトリエにはインゲルが自ら集めたたくさんの素材が保管され、作品にしようされることで再び命の蘇る日を待っています。そしてインゲルは、大好きなモーツァルトやベートーベンなどを聴きながら、作品に対するイマジネーションを大きく膨らませ、数々の傑作を生み出していくのです。

この独特の作品作り、そして作品の中に隠された意味について、インゲルはとても面白いことを話しています。「私の作品に隠された意味は、おそらく私の家系の歴史に由来していると思います。私は絶えず自分の家系とその歴史について調べてきましたが、私の先祖は1492年にスペインのグラダナがアラブによる支配からキリスト教徒らによって奪還されるまではスペインに住んでいました。しかしその後、先祖達は幾多の旅を経てカナンの地であるイスラエルに移り住んだのです。私が無意識のうちにさまざまな文書を探し、引き裂き、その切れ端を紙やキャンバスに貼り付けているのは、絶えずよみがえってくる私自身の物語の歴史に、何等かの足跡を残そうとしているからであるのを感じます。」

インゲルはまた、5世紀ごろから14世紀にかけて、パレスチナやスペインにおいて霊感を受けた人々が書いたとされる神秘の書「カバラ(ユダヤ教の伝統に基づいた神秘主義思想)」からも、多くのインスピレーションを受けていると語ります。神秘的な表現を用いて、天地創造や人間の存在について解読しようと試みるこの書物もまた、インゲルの作品に独特の深みを与えているのです。

「芸術とは皆が参加できるものであり、一人ひとりが感じ取ることのできるもの。私の作品をみる人が、それぞれに思うように感じ取ってくれたらよいのです。」と語るインゲル。いま彼は、オペラ6作品をテーマにしたシリーズもののエッチング版画の制作を進めており、いまからその完成が楽しみに待たれます。そして日本のファンに対して、インゲルは「日本の方々の音楽的感性の繊細さには常々感銘を受けています。芸術全般に対しても、作品の価値をより高度に高めていく繊細な感受性を持っておられることに、私は常に心を打たれ、また畏敬の念を抱かずにはいられないのです」と、熱いメッセージを送っています。